2017山口お宝展 【鮎川義介】

2017山口お宝展、開催中です。

さて2017年のお宝展は、
2月25日(土)~4月2日(日) 大殿・白石・湯田地区周辺にて開催されます。

今回、ホテルや旅館、関連施設(もちろん長州苑でも)で配布中のパンフレットの表紙を飾るのは、山口市大内出身の実業家「鮎川義介(あゆかわよしすけ)」さんです。

「鮎川義介」って…そもそもどんな人?

現・日産コンツェルンを創設した総帥です。
あの日産を創設した方がまさか大内地区出身だとは…初耳の方も多いのではないでしょうか。
生涯160もの会社を興していながら、鮎川の名を冠したものはひとつもなく、自分の資産もほとんど持とうとしなかった義介。
彼の清々しい生きざまを紹介した企画展が、菜香亭にて行われています。
その内容を、少しだけご紹介いたしますね。

鮎川も山口出身の歴代総理大臣も、みんな利用していた菜香亭

エンジニア「鮎川義介」

明治維新後没落した上級藩士の家出身。
没落していただけあって、かなりの貧困にあえいでいたそうですが、大叔父はあの井上馨。それならいくらでも楽に仕事に就けたはずなのに、彼はあえて一職工として、エンジニアを目指すことにします。

東京帝国大を出ていた鮎川は、本来なら日給40円~70円を頂ける学歴
さらに大叔父は政界の超大物・井上馨
しかし鮎川は「人間は下からやらなければならない」と言う井上の言葉を忠実に守り、その素性を隠し、なんと2年間、日給48銭の仕上げ工として働くことを選択しました。

その後、移民向けの4等船室でアメリカに渡り、見習い工として働きます。
20代でさまざまな経験を積み、さまざまな人と出会った結果、「人づくり」という信念が形成されていったようです。

鮎川にまつわる貴重なもの。鮎川の歩んだ歴史が、小説のように学べます。

実業家「鮎川義介」

井上の支援により、今の北九州市に「戸畑鋳物株式会社(今の日立金属)」を創立。(この創立のため、井上の顔を初めて利用)

その会社を井上が視察に訪れた際、鮎川は人力車を用意しました。人力車から降りる段になって、井上は律義にポケットから車賃を支払ったそうです。
井上曰く「自分が会社を見に来たのは、招待されたからではなく、全く自分自身の勝手。即ち私事であるから、ビタ一文会社に出させてはならない」
それを聞いた鮎川は、会社は株主の委託によって経営にあたるのだから、微細なことでも公私混同してはならないと、強く心に誓いました。

また義弟が設立した「久原鉱業」を再建、改組し、公開持ち株会社「日本産業」を設立します。(これが「日産」のはじまり)
その後満州に本部を移したり、失敗したりしますが、日本最大級のコンツェルン総帥として邁進していきます。

1938年 ダットサン 17型 ロードスター

政治家「鮎川義介」

参議院選挙に当選した鮎川。
一番専念したのは、日本の産業の基盤を支える中小企業の助成のために、政治の側から中小企業の振興を図ろう、というもの。
さらに昭和31年には「日本中小企業政治連盟」を結成。
責任感が強く勤勉な中小企業の経営者を信頼し、人を一から育てて適所に配置するというやり方を、政治家になっても貫きました。

他にも

30代にして世界の鉄鋼王ジャッジ・ゲーリーと会談したり、
60代の頃はヒトラーとも面会し、
戦後は準A級戦犯として巣鴨プリズンに収容されたり(2年後釈放)
87歳で亡くなるまで、強い信念を貫き続けました。
(座右の銘「至誠天日を貫く」)

鮎川義介の墓は東京多摩霊園にありますが、分霊塔は山口市、瑠璃光寺五重塔近くの洞春寺にあります。

鮎川の隣には、敬愛する大叔父井上馨が眠っています。

また、墨絵もお上手だったようで、非常にかわいい作品もたくさんご覧になれます。

なんだか優しい絵

鮎川の墨絵の練習について

義介一周忌に配られた「丸に三角」染物

最後に

鮎川義介の企画展、歴史をなぞると、まるで現代ビジネスにも通じる良い小説を読みきったような、熱い気持ちが湧きあがってきます。
この機会に、実業家として志士たちのように志を貫いた偉人に触れてみてはいかがでしょうか?

菜香亭
山口お宝展